alongsnowの日記

ペンドレット症候群により、先天性難聴。今は人工内耳ライフです。

淋しいのはアンタだけじゃない③

10月初めに発売されていました。

淋しいのはアンタだけじゃないの3巻。

 

なんかもう凄い本ですわ・・・。

 

この本は健聴者にとって聴覚障碍者とはどんなの?というだけではなく、私たち

聴覚障碍者にとってさえも、聴覚障碍ってどんなの?っていうのが「初めて」わかるよ

うな感覚だったように思います。

 

よく、「どれくらい聴こえているん?」とか「聴こえないってどういう事?」って聞か

れるのですが、・・・・・・・さっぱりわかんない。

自分にとって「聴こえている世界」を知らないから、自分の聞こえを説明できないんだ

ろうなあ・・・と思っていたけど、この本を読んで、ほんっとに自分が聴こえない状況

がどんなのか知らなかったかもしれないって思い知りましたわ。

 

人工内耳をして、初めて知ったのですが、環境音・・・ほんっとにうるさい。

全く誰もしゃべっていない状況でも、絶えず何らかの音はしているんですね・・・。

健聴者は、環境音の中から必要な音だけを無意識に聞き取り、環境音の中でも自分の

聞きたい音だけを拾うことができるんですよね。

 

これは・・・知らなかったなあ・・・。

 

補聴器の時代は逆に何も聞こえていなかったので、ずっと静かだったんです。

それが当たり前だと思っていたんです。

 

で、人工内耳を始めると、環境音がうるさすぎて肝心の会話が聞き取れない。

何でこんなに環境音ってあるの?

 

・・・・「聴こえる」って一体どういう事?

どないしたら会話が聞き取れるの?

 

会話が小さくて聞き取れないから音を上げると、周りの環境音が大きすぎて肝心の会話

が聞き取れない。

肝心の会話自体も音がひずんで聴き取れない。

 

これが「聴覚障碍」っていう事なんだなあ・・・・と思います。

 

で、聴覚障碍と言っても千差万別ですよね。

50dBで会話が難しい人もいれば、90dB以上でも会話がある程度できる人もいる。

 

snow、右も左もほぼ同じdBなんです。若干右が悪いかな、位。

でもって聴力検査のグラフもほぼ同じ感じなのです。

それでも右は全く音を理解しない。

左は理解できる。

同じ一人の人間でも、これだけ右と左でほぼ同じ条件でさえ聞こえは違うんです。

 

佐村河内さんが、「自分は感音性難聴である。」と認めてほしい気持ちも・・やはり

わかるような。

100dBの自分から見たら。50dBで語音明瞭度が71%だったら、「かなり聴こえ

るのかな」と思ってしまいますが、違うんですね。

私にとっては100dBの「この今の瞬間」が一番聞こえない時期ですが、

佐村河内さんにとっては50dBの「今の瞬間」が一番聞こえない時期であると思うん

です。その一番聞こえない時期は50dBであっても100dBであっても「苦しみ・

不自由さ」は同じかもしれない。100dBだと補聴器さえも無意味になるから、50

dBは軽度の難聴である、ということは本人にとっては何の意味もないんです。

その「苦しみ・不自由さ」を理解することなく、50dBで語音明瞭度が71%だから、

「聴こえているのではないか」と言うのはおかしいと思う。

 

ただ、実はもう一つ論点があって、佐村河内さんは当初は「全聾」だということだった

んですね。これは佐村河内さんが自ら言っていた言葉なのか、マスコミが付けたのか

どうかはわからないのですが、医学上「全聾」ではない、という診断は下されている

わけですよね。

で、マスコミは「全聾」ではなかったから佐村河内さんは自分の障害を偽っていると

言っているわけで、「聴覚障碍者ではなかった」とは言っていないと思うんです。

医学上「聴覚は正常である」という診断は付いていないですしね。

 

「全聾であることを否定された」イコール「聴覚障碍者ではなかった」ということでは

ないと思うんです。

ただ、佐村河内さん自身も、「全聾」の状態は知らないと思うんですね。単純に全く何

の音も聴こえません、というのが「全聾」ではないと思うので。50dBで補聴器をせ

ずに全く音を感じることができないから「全聾」ですということにはならないと思う。

 

自分がずっと全聾だと信じて何年か過ごして、こういう騒動が起きて、「全聾(完全失

聴)ではありません。50dBの難聴です。」って言われて、「エッ?」って感じなん

やろうなあ。

snowも人工内耳する直前の診断で「ほぼ聴こえていません」って言われて「へ?」

って思いましたもん。ちゃんと日常会話は聴こえていると思っていましたもん。

聴覚は「感覚」ですね。ほんとに・・・。

 

snowもたまにどちらかというと中程度難聴者の方とおしゃべりすることがあります

が、「全然聞こえなくて日常生活がすごく大変。」と言いながら、喫茶店で「ホットで

すか?アイスですか?」と聞かれて、全く聞き返すこともなく「ホットで」とかスムー

ズに返事しているのを見ると、ん??とか思うことあります。学校とか仕事とかがホン

トにしんどい、って言いながら「カラオケがストレス発散で~」と続くと、もう頭の中

?????だらけですわ。重度にしたら、ただ鉄だか何だかの金属の棒持って歌うとい

う苦行ですもんカラオケなんて。(もちろんこれも千差万別。好きな方もいらっしゃる

と思います。)

 

ただ、中程度と重度ではまた大変さとかも違うんですね。

重度はもう突き抜けていて、もう全部しょうがないかあ~っていい意味で諦めつくんで

す。ちょっとなんかしたら、聴こえないのに凄い!って言ってもらえるし?

中程度はそこで、できるだけ健聴者に近づくことが求められるので、やはりしんどい面

はあるんですよね。進行性難聴ということもあるかもしれないし。ちゃんと聴こえてい

るやんって言われることもあるだろうし。私みたいな人が同じ聴覚障碍同士なのに、「

カラオケ行かない?」って誘っても「なにも楽しくないから行かん。」とか言うし(理

解しないし)

 

佐村河内さんの「HIROSHIMA」は実は、人工内耳する前に最後に聴いた音楽

なんです。生まれて初めてCD買いましたし。あと数日で人工内耳にする、きっともう

音楽は今のように聞こえないだろう。そしたら最後に聴きたい音楽ってなんだろう?と

考えて選んだのが「HIROSHIMA」だったんです。

NHKの「魂の旋律~音を失った作曲家~」も見ましたし。

もしかしたら「HIROSHIMA」はほとんど聴き取れていないかもしれませんが、

ただ「美しい旋律だな」と思ったのは憶えています。ドラムとかは私にとっては「好ま

しくない音」で突然割り込んでくる不快音ですが、そういうのもあまりなく、低音から

高音へも緩やかに行くので「聴きやすい」音楽でした。

実際の作曲は新垣さんなのですが、佐村河内さんが監修?、はしているんですよね。

耳が不自由な人が作った音楽、という印象はあります。

殆ど聴こえていないので、果たしてこの印象が正しいのかどうかはわからないのです

が。

 

佐村河内さんが「聴覚障碍」であることには何ら変わりはないわけですし、作曲が新垣

さんだったかもしれませんが、音楽に全くかかわりのないということではないんです

よね。

おそらくは音楽好きですよね。

そしたら佐村河内さんでなければ創れない音楽もきっとあるので、いつかまた創って

貰えたらなあと思います。

音楽って凄いなと思うときがあります。人は自然と、音楽を生活の中に、人生に溶け込

ませいていますよね。

うらやましいなあと思う。

聴覚障碍者にとっても健聴者にとっても楽しむことのできる「音楽」を聴力を失った

「佐村河内さん」だからこそ創れるのではないかと思います。

 

淋しいのはアンタだけじゃない3巻に、竹川さん(仮名)と言う方が出ておられました。

多分・・・何度もお邪魔させていただいたブログの方だと思います。

多分・・・・・ご近所さんかも・・・・??

この方も同じく人工内耳装着者でオカリナを楽しんでおられるそう。

人工内耳は「会話」に特化しているので、音楽を楽しむのはなかなか難しいようですが

こうやって楽しんでおられる方がおられるということは、なんかこれからの人工内耳

人生の可能性がどんどん広がっていっているようでとても嬉しいです。

 

作者の吉本さん、編集のサクライさんにも、ありがとうございました。

聴覚障碍がどういうことか?ということが分かったような気がします。

そして、このブログにもなんどか人工内耳の後退と書いているように、人工内耳と

少し距離を置きかけていましたが、そうではなく「聴く」ことが大事なのだと

気づかされたような気がします。

自分にとってのベストな聞こえは「この小さいマップ(音)」だと思っていましたが

STさんが言っているように「聴き続けること」「大きなマップを聴くこと」がどうし

て大事なのかわかったような気がします。

分かったうえで大きな音と向かい合う事はとても大事ですよね。

何もわからないまま、大きな音と向かい合えと言われたら苦行なだけですもん。