alongsnowの日記

ペンドレット症候群により、先天性難聴。今は人工内耳ライフです。

初めての外の世界

 音入れが無事に終わると、そのまま退院となる。

 早いわ。

 まだ、ええええええ?って混乱している状態でも、とっとと退院である。

 

 コクレアのスーツケースみたいなん?になんやらいっぱい入っている。

 それと一緒に退院である。重たいわ。

 中は結構箱だらけである。

 そらまあ精密機械だもん。ちゃんと保護しないとあかんわな。

 話それた。

 退院時には、コクレアならもれなくこのスーツケース付いているので、できるだけ

荷物は減らしておいたほうがいいかも・・・。

 

 退院して、とりあえず病院の外に出る。

 もちろん人工内耳は付けたままで。

 「ぼぼぼぼ」しか聞こえないもん。とっとと外したい。

 でも、脳みそがワクワクしているのである。どんな音が聞こえるかなあ??って。

 「ぼ」しか聞こえへんわ。

  

 でも、病院の外に出て、初めて、

 「なんてこの世界は音に満ちあふれているのだろう。」・・・・と感じた。

 もちろん、「ぼぼぼぼ」しか聞こえない。

 でも、視覚と合わせると、「ぼぼぼ」に意味が生まれる。

 今まさにすれ違おうとしている人が、携帯での通話が終わったらしく、パタンと

携帯を閉じる。その閉じる瞬間に「ぼ」と音がする。

 あ、今の「ぼ」は携帯(ガラゲー)を閉じる音なのだと。

 そうかあ、携帯閉じるときって音がするんだあ・・当たり前なのだけど、「知識」

でしか知りえなかった音が現実にある。

 前をハイヒールの女性が歩いている。床はコンクリートだ。

 こういう時は、カッツーン・カッツーンという音がすると教わった。

 そう思い出しながら、女性のハイヒールを目で追う。今ヒールが床に触れた。

 「ボッ」とまさにその瞬間音がする。

 「ぼぼーぼぼーぼぼー」という音がなんとなく「ボッツーン・ボッツーン」と変わ

ってきたような。

 

 圧巻はカフェに入った時だった。

 退院したら、どこでもいいから病院食以外のものが食べたい。

 でもそこまで食欲ないので、とりあえずカフェでケーキと紅茶のセットを注文し

て、付き添ってくれた母と紅茶を飲んでいた時だった。

 「ボッ・ボッ」と繰り返し聞こえる音。

 何の音がさっぱりわからない。

 「ボッ・ボッ」

 何かわからないけれども、かならず2回繰り返される。

 「ボッ・ボッ」

 あちこち探す。歩いている音ではない。ケーキ皿とフォークが当たる音ではない。

話し声でもない。母がカップを今置いた。その瞬間の

 「ボッ・ボッ」

 

 「ああ・・。」

 思わず声が出そうになる。

 カップをソーサーに置く瞬間の音だ。

 一度に置くと、大きな音がするから、まずカップの底の縁をソーサーにあててか

ら、カップの底全体を置くと音が小さくて済むのだ。だから2回音がするのだ。

 これは、聞こえる人であるのなら「自然に」身に付く行動だと思う。

 小さいときはわからないから、ガンっと音を立ててしまうこともあるだろう。

 うるさいなと自分でまず思って、周りはどうしているだろうと「音を聴く」。

 2回音がするのを聞いて、こうすればいいんだと自然に身に付く習慣。

 こうすれば、自分もうるさくない。周りも不快感を持たない。

 

 聞こえない子どもはどうか。

 自然に身に付くことはまずない。

 周りが教えなければならない。

 「ガンって置いちゃあだめ」「乱暴に置かないで」

 「そっと置きなさい」「うるさいよ」

 そう言われても、うるさいのがまずわからないから、どうすればいいのかわからな

い。両手でそっと置くようにする。音がしないようにそおっと。

 でも、うるさいがわからない。ガンって置いているって言われてもそれがわからな

い。ジュース美味しいな、なんて思ってしまうとすぐに忘れる。

 ガンっ。

 また言われる。

 「また!さっきも言ったでしょう。うるさいよ。」

 

 これが「音が聴こえない」ことの大変さの、ほんのほんの一部だと思う。

 ガンっと置くことのうるささがわからない者にとって、自然に習慣として静かに

カップを置くことがどれほど大変か。

 カップをガンっと置くことの不快さを感じることがないもの。

 いつだって、カップは静かだから。

 

 この瞬間、初めてわたしは「カップを二回に分けてソーサーに置く」ことの持つ意

味が「実感」としてわかったように思う。一回それがわかってしまうと、すぐに習慣

になるのである。カップは二回に分けてソーサに置くというのが。

 聞こえないときには、あれほど意識して気を付けてカップを静かに置こうとしてい

たのが、何も考えなくても自然にできてしまうのである。