スパイをあきらめる

 昔、スパイになりたかった。

 

 もちろん嘘です。

 でも、もしかしたらスパイになれちゃうかも?なんて思っていた時期はあった。

 小学校5年くらいで、めまいを起こして聴力低下後、5年くらい補聴器がまったくで

きない時期があったんですね。

 その間のコミュニケーション方法は口読とか読話とか読唇とかいう「口の形を読んで

相手の言葉を理解する」というもの。普通学校に通っていたので手話を覚える機会も使

う機会も全くない。補聴器が使えないから完全に音のない世界。

 そういう中で、コミュニケーション手段というと筆談と読話くらい。

 筆談はいつもどこでも誰でもしてくれるわけでもなかったわ。

 そうなると、読話がメインになってくるわけで。

 相手の口の形を読んで、何を言っているか理解する。

 簡単そうでこれがまあ難しいんだわ。

 ア行が基本になって、そこからカ行サ行タ行ナ行・・・のそれぞれの口形を覚えるん

だけど、はっきり言って、ア列のアカサタナハマヤラワの口形ほぼ全く同じ

 「カ」を伸ばして発音すると「かーーーーーあ」ってなるし、「サ」を伸ば

して発音すると「さーーーーーーあ」ってなるんやわ。最後は口の形を変えなくても

「あ」に戻るからねえ。この説明・・・わかるかしら??

 「マ」が口を閉じるくらい。あとは口の形はほぼ変えることなく発音できるから。

 そうなるとイ列のイキシチニヒリも口形はほぼ一緒。

 次のウ列のウクスツヌフルも口形はほぼ一緒。

 当然、エ列のエケセテネヘレも口形はほぼ一緒。

 最後、オ列のオコソトノホロも口形はほぼ一緒。

 

 ま~~、苦労したわ、読話覚えるの。

 舌の動きとかわずかな筋肉の使い方の違いとか、そういうのを視ないとわからん。

 やっとこなんとか覚えたか?と思ったら、見事に一人ひとり口形が違う。

 また、その人独自の口形を覚えていかんなあかんわけだわ。

 ま~~~~~~~~~~~~~~~~~、ほんっと苦労したわ。

 

 3~4年かかったかな。それくらいしたら5~6人の口形は同時期に覚えることがで

きたかな。慣れた人となら、傍から見ていたらsnowが全く聞こえないことはわ

からん位普通に会話できてたらしい。

 が、この時期の親友は、全く声を出さずに口形だけでsnowと喋っていたらしい。

 なので、周りから見たらsnowだけがしゃべっているように見えたらしいわ。

 ほぼ独り言やんか。

 

 で、ここにくるとsnow、思っちゃうわけである。

 声がなくとも相手の言っていることがわかっちゃうなんて・・・

 アタシもしかしてすごいんちゃう?と。

 このまま究めたら・・

 スパイになれるんちゃうか、と。

 それで生計たてられるんじゃないか、と。

 そしていつの日にか、存在そのものが国家機密になるんじゃないか、と。

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 当然のごとくどこからもスパイにスカウトされることもなく、月日は流れ、

 人工内耳を始めました。

 すると

 すると

 すると・・・。

 

 聞こえるようになるにつれて・・・

 

 あれだけ苦労して身に付けた読話術・・

 

 綺麗にサッパリ忘れちゃったのである。

 

 

 

 多分・・脳の領域が一緒なんでしょうねえ。

 視覚領域で読話しているように思っていたけど違うんだわ。

 さっぱり使うことがなくなった聴覚領域で読話していたんだわ。

 点字を指で読むのは、晴眼者では絶対にできないという。

 それと同じで。

 聞こえないからこそ、あれだけの読話ができていたんだわ。

 

 で、ずっと読話をしていた脳の領域に、音が入って・・その音を聴くことでいっぱい

いっぱいになると、だんだん脳は聴くことにウェイトを置き始めて・・。

 でも、人工内耳でまだそれほど音が理解できるわけではない、まだまだ読話に頼って

いたのが術後半年から1年くらい。

 その時期に、自分の意志に反して、脳が読話を忘れていったのは・・・

 うん。

 うん、そやなあ・・。

 しんどかったなあ。

 

 アタシ、読話も忘れていっちゃう。

 忘れたくないのに、まだまだ頼りたいのに、相手の話をちゃんと聞きたいのに

理解したいのに、会話したいのに・・。

 まだまだ人工内耳は音を聴くことができないのに。

 「人工内耳の限界」がいつくるのか。

 毎日毎日変わりゆく聞こえ方の中で、聞こえる範囲が広がるのに驚きつつ、その反面

限界がもうすぐそこに来そうな予感もあって。

 でも、その限界域で会話が不自由なくできるという自信は全くなくて。

 

 私の読話!!忘れたくない!!ちゃんと覚えておきたい!!って泣きそうなくらい思

っているのに、へっぽこ脳みそは、アッサリと「そんな二つもできんわ。」って、ポン

ポンと読話をそこらへんに置いていくんだわ。

 スパイ?何それ?寝てんのか?みたいなかんじで。

 

 

 

 で、人工内耳を始めて2年過ぎました。

 だいぶ人工内耳だけで会話ができるようになりました。

 ほんまにありがたいことですわ。 

 今は、あの時は不安やったなあって笑って思い出にできている。

 

 困るのが、電池切れとかで人工内耳のスイッチが切れちゃったとき。

 

 おい、へっぽこ脳みそ。

 こおいうとき困るだろ?

 ちょっとは覚えとっても良かったんちゃう?

 

 こういう時は、へっぽこ脳みそも「あああああああああ、うっひょえ~~」ってな

かんじで、ちょっと頑張って口形を読み取ろうとする。

 ほんのちょびっとやけど。